オーク


オーク

夜、桜坂駅の改札で小中高同じだった先輩に声を掛けられ、足を止めて少し話した。

年末地元の友達に会ったこと、子どもを連れて行った公園でも別の先輩に会ったこと、どちらのときも昔話の中で先輩の話が出てきたことを話した。
福岡で飲食店の仕事をしていたと聞いていたが、今度山口で仕事をするらしい。お前の長ったらしい文章を時々読むけど、最近書いてないだろうと言われ、何か書こうと思った。

その先輩は、10年くらい前に天神でバーを経営していた。雑居ビルという感じだったがそれがよかった。元々知っている友達が来ていることが多かったが、新しいお客さんも結構来ていた。

僕は転勤で東京から帰って来た頃で、その時は北九州に住んでいて、仕事以外することもなく、休みの日は暇を持て余していた。
実家に帰っても、一度一人暮らししてしまうと、家でも中々居心地が悪く、福岡に来ても実家に帰らず北九州にまた帰っていた。

先輩のバーで飲んでいるときに記憶が定かではないが台湾から来た男性二人組がお客さんで来たことがあった。狭い店だったので否応なしに会話をするようになり、日本語が話せなかったので、適当な英語で話した。彼らはお茶を売っている経営者とのことで色々と話をして盛り上がった。彼らは英語が上手かった。ひとしきり盛り上がると僕は帰りたくなったので帰りたいも告げたが、まだ飲もうと帰してくれなかったので、病気の母親が家にいるから帰らなければといけないと伝えると、おおそれはいけないな、早く帰った方がいいと神妙な顔で返してくれた。むしろじゃあなんでここで飲んでるのという雰囲気が少し流れたことが酔っていても分かった。台湾の人は家族に優しいなと勝手に感じた。

飲食店をしていれば普段出会うことの出来ない人と出会えるのだろうと思った。大学生の頃は将来カフェかバーを経営することが夢だったから、現実に行動を起こしている先輩が羨ましく格好いいと思っていた。
先輩を応援している。命や人生というのは生きているという観点からすれば誰にとっても平等だと思う。


朝の霞

春が来ているため、電車を降りて駅のホームに出ると外がぼんやりとしている。


春は特に苦しい。

季節が変わろうとする気圧と温度の変化、職場など環境の変化、立場の変化、年度の変化など著しく変わる。

風呂に入っている時、お湯が出てくる穴から、温かいお湯が少し冷めたお湯に入り込み混ざる時、冷めたお湯の中をかき分けるように流れるのが目で見える。
温かいお湯が冷たいお湯に入り込むということは、冷めたお湯は温かいお湯が入り込んだ分動かないといけない。まるで満員電車のように。
つまり、変わるということは、変わったことに対して何かが影響を受け、影響を受けた何かはまた変化を受け入れなければならない。
季節が変わるということは、ものすごく大きな変化だ。そりゃあ多少頭が痛くなったり息苦しくもなるだろう。

幸せと楽は決して同じではない。

今一番幸せな時間は、子どもに夜寝かしつけで本を読んであげる時間だ。あいうえおから始まる口で発音できる言葉を使って彼らに君たちのことが本当に大切だよと思っていることを伝えていく。今は本を読んであげることと、遊んであげることと、抱っこしてあげることと、どこかへ連れて行ってあげること、一緒にご飯を食べたりお風呂に入ることで彼らと同じ時間を過ごしている。もっと子どもが小さかった頃はママに行くことが多く、自分の力量と意識が不足していたこともあり妻にまかせてしまうことが多かったが、彼らが大きくなるに連れて自分できることも増え、とにかく今は彼らを出来る限り抱っこしてあげたいと思う。

幸せと楽が同じではないことは、本当の幸せを見つけてから明らかになった。

なんと再来月40歳になる。
なるべくゆっくり呼吸して、瞬き一つ、1日ひとつ、すべてのことを大切にし、すべてのことに対して感謝していきたい。

風呂で子どもが、忍者の真似をして、すいとんの術〜と言って湯船に潜って、くわえたストローの口を水面から出して息をして遊んでいた。
パパもして〜というので、喜ばせようと思って張り切って太った体を潜らせ、ストローでひとしきりスーハー息をして、ザバンと顔を出し、パパのすいとんの術どうだったかと聞くと、パパの息はゾウの臭いがすると言っていた。福岡市動物園にはゾウがいないので彼にとってイメージ出来るゾウの臭いと合っていたのだと思う。幼少の頃母親に耳かきをしてもらっていた時に、お母さん僕の息臭い?と聞くと、ん?お母さんの息臭い?と聞かれ、いや、臭くないよ。と答えたことを思い出した。
次の日職場の前のコンビニでブレスケアを急きょ買った。300円近くした。値段にも、それでも買う自分にも驚いた。出勤して隣の社員さんに出来事をすべて打ち明けた時に、いやいや臭いよとも臭くないよとも言わなかった社員さんにも驚いた。沈黙とは本当にいつも美しい。

幸せは胸の中にあるが、存在を自分が認めない限り存在することはない。

4月17日

2024.4.17、夜、
パパは難しいお仕事をしながら、あれもしてこれもしてと言われながらもこなして、子どものために早く帰って来て、子どもと遊んであげて、めちゃくちゃすごいと思う。
と言っていた。6歳でそれを言うのすごいと思った。
誰もオレを褒めることは無いから、自分で自分を褒めないとと思っていたら、息子がオレを褒め始めた。


おれが小学生の時、サラリーマンか農家になりたいと文集に書いたのは、お父さんに憧れていたからかも知れないと思った。
息子は、仕事に行くおれに憧れている気がする。おれもそういう目で父親を見ていたのか?
家族のために仕事に行ってくれて、お金を稼いでくれて、おもちゃを買ってくれる。それはそれは幸せを運んでくれる存在だろう。
おれは今その存在になっている。
父親で、幸せだ。本当に。
仕事があって、仕事ができて、幸せだ。本当に。

12月31日

12月31日
朝起きて、正月にそれぞれの実家に持っていくお土産を買うために天神の大丸に行こうということになり、奥さんと子ども二人と地下鉄に乗って天神に行った。買い物を済ませ、奥さんが靴を見ている間に子どもたちを連れて、高校の友達が働いている地下街の化粧品屋に行った。最後に行ったのは5、6年前だからいないかも知れないと思っていたが、いた。接客をしていた。僕たちに気が付いたが、仕事中なので、お構いなくという目配せをして、終わるまで子どもとやり過ごした。
前にあったのは奥さんに結婚の申込をすると話していた時だったため、子どもを二人連れていることに多少驚いているようだった。子どもたちは試供品のいい匂いがするクリームを手に塗ってもらっていた。こないだのゴールデンウィークに集まったということを話し、今度集まるときはぜひ来てほしいと、自分が必ず行けるかどうかも分からないのに話した。会えてよかった。

12月28日

12月28日
仕事納めの日に、1時間早く帰らさせてもらう。早退させてもらえる職場に本当に感謝しなければならない。
今年一年本当に頑張ったなと自分では思う。頑張ったし、特に精神をすり減らしたがよく毎日を送れたと思う。仕事での目に見える成果はほぼ無いが立ち続けることが出来た。もっと優秀な人ならもっと成果を出せたのではないかと思う。
思っていたより早く電車が着いたので、ずっと行けていなかった薬院の雑貨屋に立ち寄った。結構混んでいて、おしゃれなしめ縄や来年のカレンダーが並べられていて年末感がすごかった。一階と二階の売り場を歩き回り、幸せな空気をたくさん吸った。天神から地下鉄に乗りたくなくて、人混みを避けて薬院から赤坂まで歩いた。大名を歩くことなど本当に無くなったが韓国のお店が増えていた。時代を反映している。
赤坂から地下鉄に乗り、西新で降りた。ほぼ生まれ育った町。待ち合わせまで少し時間があったので、プラリバによった。無印良品をウロウロして、来年仕事で使うスケジュール帳を買った。屋上のフロアに休憩場があるので、そこまで上がりイスにかけた。暗くなってきた。これから年末年始の休みが始まる。
藤崎側の商店街にある店が予約していた店だ。時間まで15分くらい早い。子供の頃、この辺りに自転車で来ていた。店の前で待っていると友達が一人来た。少し気恥ずかしくなって、どうでもいいことを少し話してみんなより先に店に入った。
案内されて席につき、友達もほぼ揃ったので最後の一人を待たずに乾杯した。その後最後の一人も来た。眼に映るのは現在の友達の姿なのだけれど、背景が小学校と中学校の頃になった。お酒が入っていたからかも知れない。一回だけ、今結婚していることと親になっていることを忘れたと感じた。それほど懐かしかった。
今日は集まった友達の中のひとりが結婚したので集まった。お祝いの言葉を伝えた。生きることの幸せというのは、こういうときのためにもあるなと感じる。
飲み会が終わったあと、西新から六本松まで友達と歩いた。昔のこと、友達のこと、バスケのこと、親のこと、色々話した。
みんなそれぞれに生活があるから今度いつ会うかは決めていないが、また会える日まできちんと毎日を送ろうと思う。生きていてよかったなと思う瞬間は、生きているからこそ感じられる。そのためにこれからも生きていきたい。

電車が止まった日

10月25日、朝はパズルゲームと放送大学のラジオでごまかせることが分かったので、余裕で出勤した。
仕事も、充当があったが余裕でやった。ただ、うるさい外国人がいて日本語を離さないから合わせてやった。普通の窓口の五倍は大変だった。
帰り、西鉄電車が泊まった。今の俺には電車が敏感事項なのに。早く子どもの顔が見たかったし、子どもが待ってるのに申し訳ない。いつ再開するか分からない、国鉄に乗るにも乗り慣れてない電車に乗りたくないし知ってる人と遭遇して心が乱れるのも嫌だ。困ったあげくスタバに行き、少し時間を潰し、もしかしたら西鉄が動き出すのは遅くなるのではないかと感じたため、西鉄を後にした。心許なさと携帯の電池残量から国鉄の方角をきちんと確認しないで歩き出してしまった。方角も見失い地理もない夜の久留米の街は暗く不安が漂った。合っているか分からない道といつ辿り着くか分からない国鉄までの道で、電車に乗れることはおろか歩いているだけでぜいぜいなり始め、路上で倒れそうになった。久留米の近くに住んでいる友達に数カ月ぶりに連絡し迎えに来てもらい家まで送ってもらおうかと迷惑を掛けようかと考えたが足が動くため思いとどまった。なんとなく元気付けるために童謡の「散歩」を歌い、身体にリズムをつけながら歩いた。程なくして街路にある地図看板に気付き、道を確認して方角が合っていることと国鉄の道のりまで半分来ていることが分かった。それによって2番目に待ち構えた「電車に乗れるだろうか」という不安が先頭に現れ巨大化して心を押さえ始めた。しかし、「家に帰る手段が見え始めた」ことで希望の光が見えてきた。身体は動く。
国鉄の駅が見え、トイレで用を足し、普通電車が10分後に来ることが分かった。遠くの闇から光がやって来て、人達は皆乗り出した。窓が開く車両なのか外側から確認するが確認できない。そうこうしているうちに停止位置に停止したため、乗らないと行けないのだが乗るのが怖いのだ。ここ一月くらい、もう何度目の経験だろう、本当に苦しい、しかしこの電車に乗らないで次に自分が乗れることは電車がいつ来るか分からないし、次に乗れる電車が小一時間かかるのであればどういうわけか心が持たないだろうと考え、無理矢理乗った。電車のドアが閉まり、閉じ込められた、わけでは無いがここ一月の自分にはそう感じるようになってしまった。電車は闇を進み始めたがスピードを上げるに連れて心臓の鼓動が叩き始めるのが分かった。心臓以外の身体の全ては固定されているのに心臓だけがはげしく波打つ。しかし、ここで自分の意識が心臓だけが激しく鼓動し、頭は失神するような状態ではないことが頭で分かり、今回も昨日の朝の電車と同じで頭と身体が分離した動きをしていることに気付いた、気づけた。そうなると時間の経過とともに心臓の鼓動が鎮まるのが分かる。頭の一部だけ静かでいられたのは人が少なかったことと各駅停車だったことと国鉄を使って出勤していた経験があったから大丈夫だろうと信じたからだった。そうして次の駅に着いてドアが開くと外から入る新鮮な空気を吸い込み、吐いて、再び電車のドアが閉まり静寂が戻ると堪え難い不安が襲い、その堪え難い不安に堪える。不安が存在し、不安に打ち克つと布告すると不安の存在を認知してしまったことになり、コントロールできない悪魔が暴れ始める。不安を認知してはいけないのだ。そして不安を認知しないように心づけるということは認知していることになる。だから思考を無にしなければならない。

考えてみれば、それにしてもよく東日本大震災のときに頭がこんな風になってなかったなと思う。あの頃は今ほど考えることもなかったし、今ほどは疲れていなかったからか。どちらにしてもあの頃は不安を感じるなどという機微を持ち合わせていなかったのかも知れない。それにしても息苦しい。息苦しいが数えられる希望の光があの頃より明らかに多い。

発症してしまったため、もう治らないと思っている。手の震えも子供の頃から治らない。どれだけ悩み伏しただろう。多分治るという言葉が合わないのだと思う。季節と同じなのだ。全て。ひどくならないようにただ明るく振る舞い、傍らに据えて歩き、当たり前のように毎日を過ごしていくだけ。

明日も仕事のため確実に悲しみや苦しみと出遭うだろうが、ひとまず今日あった悲しいことや苦しいことは全て忘れようと思う。生理現象は機械操作のように指示は効かないが時間が助けてくれる。忘れるということは時に付き合いづらいものがあるが大切な事だと思う。

博多駅から歩いて帰ったことで妻と子供には帰りが遅くなり迷惑を掛けたが、好きな警固の街を歩けたことと、歩きながら今日あったことをまとめ記すことが出来たので、それを今日の報酬としたい。お釣りが来るほどの報酬である。なぜなら時間が経ち悲しい記憶が薄れてきているから。今後も確実に這いつくばる場面は現れると思うがそのことに関してだけは諦めたくない。

10月18日

10月18日、朝、電車で、ケミストリーを聞いたあと、レミオロメンを聞いた。
レミオロメンを教えてくれた友達のこと、アルバイトして初めて買った車、軽いドア、ボロいカーステレオ、試験、アルバイト、就職活動、ドライブ、ただ漠然とした不安と自分の自信のなさを思い出した。
しかし、今の自分はあの頃の自分には想像できないくらいすごい自分になっている。
仕事につき、毎日戦い、結婚もしていて、子どもも二人いて、家族を愛して、家も持ち、車も持ち、毎日誠実を貫いて生きている。多分あの頃の自分が採点すると100点満点の230点くらいつけるんじゃないだろうか。

ゴールデンウィーク

ゴールデンウィーク
ゴールデンウィークに、杵築市のキャンプ場に行った。高速道路に乗って日出を通った。杵築城を通り過ぎた後に寄ったスーパーで長男が遠すぎると文句を言っていた。確かに子どものお出掛けには遠過ぎるが大人の気晴らしとしては遠いほうがいい。それから程なくしてキャンプ場に着いたが、畑を耕しているおじいさんが一人いるだけで誰もいなかった。後でそのおじいさんがオーナーだということが分かり、早い者勝ちでおすすめのキャンプサイトに案内してもらった。別府湾が見えるいい場所だった。自然遊びがウリのキャンプ場で、大木にロープを結んだ手作りの大ブランコやツリーハウスがあり、長男も次男も大喜びだった。予報通り雨が降り始め、少し焦りながらテントを立てた。夕方になると雨は止み、無事火を起こし、夜はアヒージョを作ってもらい、食べた。キャンプ場にトイレは1つしかなく、シャワー室が併設されていて、誰かがどちらかを利用するとどちらかがその間利用できないようになっていた。朝はホットサンドをつくってもらい、相当美味しかった。オーナーが散歩がてら僕らのところにやってきたのでお陰さまで楽しくキャンプ出来た旨を伝えると、雨で人がすくなくてよかったでしょう、最初は断りが必要なほど予約が埋まっていたけど雨の予報が出てからみんなキャンセルだったと言われたため、今まで雨のキャンプが多いから、今回も別にいいかと思い来ましたと伝えると、その考え方はいいね、雨だと自然が近いでしょう、それに家族が団結するから、と言っていた。なんとなくオーナーのキャンプ場のコンセプトが分かった気がした。キャンプもグランピングも、どちらも本当に楽しい。このキャンプでは不便も含めのそのままの自然を楽しんでほしかったのだと思った。正直ツリーハウスも少し怖かった。壊れることはないのだろうが壊れないか怖かった。ただ、ここまでなら怪我しないとかこうなると危ないというのは自分で推し測りながら判断していくほうが


次男の誕生日

この前、実家で次男の2歳の誕生日のお祝いをした。長男は5歳だが、5歳にもなると人をお祝い出来るようにもなっており、「りょうちゃんおめでとー」と可愛がっていた。1年前は自分が中心じゃなくて泣いていたのに成長を感じた。

その誕生日会の中でも当然のように兄弟ゲンカはあり、次男は力と言葉で勝てないので、長男に向かっておもちゃを投げた。

当然長男になぜ次男を怒らせたのかと聞くことと、ものを投げるのは良くないと次男を叱ることになったのだが、ばあちゃんは、「いや、りょうちゃんは今ね、当たらんように投げたよ。」と言っていた。一同あ然とし、僕は自分の孫を見つめる母の気持ちの深さに驚いた。
信じている気持ちが深かった。
僕は今まで自宅で二人が兄弟げんかしたとき、長男には何もしたと聞き、次男には投げるなといつもいつも言っていたが、確かに思い出すと一度も長男に物が当たった事はなかった。

信じてもらえている、ということはものすごい力を持つと思うことがある。
僕は、母親がいつも自分を褒めてくれ、信じてくれていたことを覚えている。どうでもいいことでも褒めてくれ、どうでもいい話でも聞いてくれ、嬉しかった。
父親とは大学くらいまではあまり話さなかったが、その時も、母親が「お父さんはあんたが本当に部活を頑張っていて偉いと言いよったよ」とか、「あんたがアルバイトを頑張っていて本当に偉いって言いよるよ」と父親のいないところで褒めてくれ、玄関で靴を履きながらそれが心底嬉しかったし、自信になった。そして父親のことも好きだった。
そのおかげからか分からないが、具体的な根拠の無い自信がある。人の話も全然分からないし、仕事を捌くのも人より遅いし、本当に自分のことが嫌になりつらいことがあるけれども、何かよくわからないが自分は大丈夫という自信で歩いてきた。

母親と父親から受けた深い愛情を僕は子どもに注いで行きたい。子どもには生きている歓びを感じられるよう育てていきたい。人生は楽しいことと苦しいことが半々くらいかと思う。その中に生きる目的を見出し、歓びを感じてほしい。

子どもが生まれるまでは奥さんに自分の愛情のすべてを注いで行くと思っていたのに、子どもが生まれてから相当に変わった。今は子どもを全力で愛し、奥さんとはパートナーのような関係でいる。子どもの手がかからなくなったら、時間と関係性を巻き戻して、結婚して子どもが生まれる前までの続きを過ごして行きたい。その時の信頼関係は結婚したばかりの頃とは比べものにならない強いものだと思う。良い関係でいたい
。そして中々会うことの出来ない友達にも会いたい。

家族でテレビ

下の子は、結構上の子よりやんちゃである。会社から帰る電車の中で、下の子が重曹スプレーをテレビに吹き掛けてテレビが映らなくなった旨の奥さんからのLINEを見た。
帰ると確かにテレビは息をしておらず動かなくなっていた。
奥さんが確か保証に入ってたから修理してもらえるかも知れないと言っていたため、明くる日に購入した電気屋に電話し、子どもがテレビを濡らしたため壊したので保証で直して貰えないかと相談したところ、オペレーターさんは少し明るい調子で、お子様が壊された場合は自然故障となりませんので保証の対象にはなりませんとのこと。こう打たれたらこう打つというような熟練の美しい返しだった。自分は少しはてなになってしまい、なんのための保証なのかと思い、自然故障以外の故障が保証の対象にならないっていつ説明されてたんですか?と聞くと約款に書いてありますと明るい調子で答えていた。自分の思い通りにならなかったことと奥さんにいい返事が出来なくなったことに腹が立ち、分かりましたと言って電話を切った。電話を切った後に確かにわざと壊すやつがいたらキリないなあとも思ったが、果たして子どもが壊す目的を持ってスプレーしたとも言えないが、故意ではなく過失だった場合に保証は認められないのだろうかとも思った。大きな買い物の類は情報と知識の少ない消費者は知らない間に売る側の望む方に進められている。保証は適用されませんが、修理業者を派遣して修理代の見積もりを取ることも出来ますとのことで、ちなみに見積もりに来るだけでおいくらになるのかと聞くと結構なお金だったので、お断りをした。テレビが見れなくなったからと言って藁にもすがりたいように見えたのだろうか。実は自分もその類の人間だが精一杯強がり断った。
かくして、息をしてない55型テレビの前に独身時代に使っていた32型のテレビを置いて見ている。25歳の時に買ったから13年経っているがまだ映る。保証にも入っていない。何なのだろう。

しかし、55型テレビが動かなくなったことで家族の生活が変わった。
無尽蔵に観ていたYou Tubeが見れなくなったのだ。何かしないといけないことがあるときにYou Tubeを見せておくと子どもが大人しいため大変重宝していたのだが、いつからかことあるごとにYou Tubeを見せてほしいと言い出し中毒のような状態になり禁断症状が

高校の友達

「会えたら嬉しい」
という言葉と感情から一番初めに現れる変換候補は、友人との再会だと思った。友達の家の玄関を開けたとき、そう感じた。
高校の友達の集まりに行った。子どももまあまあ大きくなったし、自分の気持ちの中で行けるかなと思ったので行った。
幸せだった。
数えてないのでよく分からないが数年ぶりくらいだと思う。
自分の知っている、すごく幸せで楽しかった物語に出てくる登場人物に久しぶりに会えたような感覚だ。日常で会うことが随分無かったから現実に存在しないかのような感覚になっていたからかも知れない。
みんなと別れたあとも楽しい気持ちが胸の中に残った。
会ってくれた友達と着いてきてくれた子供たちと奥さんに心の底から感謝している。